思い起こすは、あのひと皿

日々の美味しかったものについて語る。

豆腐の味噌汁

昔ながらのお豆腐屋さんの絹豆腐で作るお味噌汁。


水からくつくつ煮立てると、
お味噌を溶かし入れる頃には、角がほんのり優しくなっていて、
それがなぜだかとても喜ばしく感じます。
 
 
さて
お味噌汁の具といえば、豆腐に油揚げ。
我が家は具は基本的に三種類なので、残るはあと一種類。
 
残りのひと枠、
四季を通じて選ばれるのは、葱にわかめに小松菜、ほうれん草、きのこ類。
 
春なら菜の花、あおさ、蕗。
夏なら茗荷、茄子、おくら。
秋ならじゃがいも、牛蒡、玉葱。
冬なら大根、韮、とろろ昆布。
このローテーションで回すことが多い気がします。
 
 
ほかほか炊き立てのごはんと
ちょいと大きめのサイコロ豆腐のお味噌汁。
朝はこれだけでも嬉しいものです。
 
残りひと枠に選ばれた具の存在感は大きいですが、
それをコクの面で支える油揚げと、
次のひと口のための緩衝材になってくれる豆腐、
しみわたるように滋味深い味噌のおつゆなくしては、成り立たないように思います。
 
その中でも、
やはり豆腐の緩衝材な役割は、地味で目立たないけれど、
豆腐を舌の上でゆっくり潰す感触と、優しい豆腐の甘みがたまらないのです。
 
 
歳を重ねると、
目に見えやすいわかりやすいものから、
目立たないところだけれど良い仕事をしているものを見直して、
そこに粋や価値を感じるようですが、
豆腐のお味噌汁一杯にもそんな世界を感じてしまいます。
 
 
 
 
 

味噌おにぎり

父の夜食の定番は、
母が握った味噌おにぎりだった。
 
私は小さい時から、
父の夜食をちょいといただく泥棒猫であった。
 
 
その日の母の気分によって、
ふんわりホカホカに握られたものもあれば
ぎゅっと固く握り締められたものもあった。
でもいつだって味噌おにぎりは美味しい。
 
三口で食べられるくらいの小ぶりな大きさ。
白いご飯粒が、むらっ気のある味噌の左官仕事で色づく。
米と味噌だけ。
ただそれだけで完成する。
 
白いお皿にいくつか盛り立てられ、
側には緑の濃淡が映える野沢菜漬けか、
滋味深い黄色の沢庵が添えられ、
味噌おにぎりにかぶりつく前から、
口内が漬物の塩気を迎える体制を素早く整える。
 
 
初めの一口は控えめに。
ご飯のふくよかな香りと、
歯を差し入れた時のなんとも言えない進入の感覚。
(豆袋に手を入れたときと同じ快感かもしれない)
 
味噌の奥行きある香りが、
やや控えめに鼻から抜ける。
間も無くゴクンと口内から消えてしまい、なかなか味わえない。
 
美味しいものを一口目から味わう、というのは大変難しいものである。
美味しいものには皆いち早く飛びつきたいし、
いち早く手に入れてやろうということなのか。
 
 
 
昔、
父の夜食の味噌おにぎりをふた口ほど食べて、母から毎度怒られていたが、
いつも父は怒らず静かに微笑みながら熱燗を嗜んでいた。
厳しい父が私を日常で甘やかす数少ない場面であった。
 
 
そんなことを思い出しつつ食む味噌おにぎりは、
親孝行しなきゃいけないな、と実感する機会でもある。
 
 
味噌おにぎりはとても素朴。
なぜか夜以外で食べたいとは思わない。
 
味噌おにぎりは、
夜の静けさの中で、
夜食泥棒の過去と、父のオヤジ感漂う姿を思い出させる。
 
 
味噌おにぎりを食べた夜は、
心なしか穏やかに眠りに入れる気がする。